防火地域とは
都市計画法に基づいて定められる地域。この地域内には、万一火災が起こっても他に延焼しないような建物・工作物を建てなければならない。 基本的には耐火建築物であること。平屋または2階建てで、延べ床面積が100平方メートル以下であれば準耐火建築物でもよい。ただし、延べ面積が50平方メートル以下の平屋建ての付属建物で外壁・軒裏が防火構造になっているもの、高さ2m以下の門や塀などは例外として除外される。
資産運用の領土は、同時代に中央インドで繁栄を迎えてきたサータヴァーハナ朝などと同じくローマ帝国との貿易によって著しい繁栄を迎えていた。かつてクシャーナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣経済は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドでは銀が不足し、インド・パルティア人やサカ人の諸王朝が発行する銀貨は極度に品質の悪いものとなっていた。
しかし、クシャーナ朝が北西インドを支配した時代、即ちヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともにインド古代史上最高のものとなった。この金貨発行の背景にあったのが西方のローマ帝国の経済的繁栄であり、それに向けて輸出される華奢品であった。ローマやインドの商人によってローマ帝国領へ向けて絹、香料、宝石、染料などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として膨大な量の金がクシャーナ朝に齎された。プリニウスは当時インド人がローマの金を年間5千万セステルティウス持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝に齎された分も含まれているであろう。
外国為替証拠金取引にとってローマとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが発行した金貨の単位からもわかる。クシャーナ朝は金貨の単位をローマの金貨単位にリンクさせており、その金貨は正確にローマの2アウレウス分の重量を持っていた。さらにローマのデナリウスはディーナーラとして、その通貨単位がクシャーナ朝に取り入れられた。クシャーナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる断片的な記録に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャーナ朝の王統復元について長く支持されてきた説がクジュラ・カドフィセスとヴィマカドフィセスの属する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする説、即ちカニシカ王による王朝交代説である。
これはカニシカ以後、カドフィセスからイシカ系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。
投資信託、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティがカニカ(Kanika)王とグザン(Guzan 恐らくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったという物があること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが小月氏の出身であるとする説もある
ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解読され、クシャーナ朝の歴史について多くの新事実が明らかとなった。この碑文は1993年にアフガニスタンのラバータクで偶然発見されたもので、バクトリア語で記された1200字あまりの文書であり、クシャーナ朝時代の物としては最も長文の記録の1つである(ラバータク碑文)。内容はこの地方のカラルラッゴ(総督)であったシャファロに対して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血縁があったことが判明した。
日経225の解読によって、曽祖父クジュラ・カドフィセス、祖父ヴィマ・タクト、父ヴィマ・カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ・タクト[4]は従来全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャーナ朝の歴史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャーナ朝時代に発行されたコインの中で、ソテル・メガスという称号のみが記されたタイプの物がクジュラ・カドフィセスによるものか、ヴィマ・カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ・タクトのものであると考えられるようになり、クシャーナ朝の大幅な勢力拡大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。
FXの発祥地や勃興の経緯は詳しくはわかっていない。発祥地の候補としては首都が置かれたプラティシュタナ(パイタン)であるとする説や、クリシュナ川沿岸のダーニヤカタカであるとする説、あるいはベラーリーとする説などが有力説である。初代の王はシムカと伝えられており、彼とそれに続く初期の王の刻文と貨幣がゴーダヴァリー川上流から発見されることからデカン高原西部地方から発展したと考えられる。この王朝が残した碑文から、王家の姓がサータヴァーハナであると伝えられている。族名を取ってアーンドラ朝とも呼ばれるこの王朝であるが、サータヴァーハナ家自体はもともとアーンドラ人ではなく、「アーンドラの従属者」であったという。一説にはデカン高原西方で成立したこの王朝がやがてアーンドラ地方を支配するようになった段階で文献記録が残されたため、サータヴァーハナ朝はアーンドラ朝と呼ばれるようになったという。アーンドラ人はゴーダヴァリー川とクリシュナ川に挟まれた地方に住む人々であった。ヴェーダ文献ではアーンドラ人はダスユ(夷狄 非アーリア人)と呼ばれており、恐らくドラヴィダ系の集団であったといわれている。紀元前3世紀頃には独立王国を形成していたが、北から勢力を拡大するマガダ国のマウリヤ朝に圧迫されていた。しかしアショーカ王没後のマウリヤ朝の混乱の中で次第に勢力を拡大し、1世紀までに中央インド随一の大国へと成長していった。
王朝が開始した時期は、前3世紀説と前1世紀説がある。プラーナ文献にはシムカ王がカーンヴァーヤナ(カーンヴァの裔の意 カーンヴァ朝)とシュンガ一族の残存者を滅ぼして王位に付いたと記されており、どちらの説を採用するとしても有力勢力として台頭するようになったのは前1世紀頃であったと考えられている。
シムカの弟クリシュナの治世を経て、シュリー・シャータカルニ王の時代には東部マールワ地方も征服してその勢力を拡大したが、チェーティ朝(カリンガ国)の王カーラヴェーラの攻撃を受けて国内が混乱した。シュリー・シャータカルニ王が死去すると、その息子達が幼かったため王妃ナヤニカーが摂政となって実権を握ったという。これ以降しばらくの間、サータヴァーハナ朝の歴史はほとんどわからなくなる。王名等が諸文献に記録されてはいるが、異同があり正確な王統の復元も困難である。
サータヴァーハナ朝は1世紀頃にはサカ族(西クシャトラパ等)に圧迫されていたが、2世紀初頭に、ガウタミープトラ・シャータカルニ王が現れると、西クシャトラパ(クシャハラータ朝)の王ナハパーナを倒し、西北デカンの地を回復するとともに北はマールワやグジャラートまで領域を拡大し、南はクリシュナ川畔まで及んだ。彼の残した碑文には「サカ人、ギリシア人、パルティア人を滅ぼした」とある。彼の治世から再びサータヴァーハナ朝の歴史を具体的に読み取ることが可能になる。彼の子ヴァーシティープトラ・シュリー・シャータカルニ(プルマーイー)の時代には「南国の主」とまで呼称された。しかし、ヴァーシティープトラ王は、西クシャトラパ王ルドラダーマンと戦って敗れた。このため若干の領土を奪われたが、ヴァーシティープトラ王の王妃がルドラダーマンの娘であったため、ルドラダーマンはサータヴァーハナ朝を徹底的に破壊することなく引き上げた。
中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。後漢書には以下のようにある。
月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。
(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い称号を用いて大月氏と呼んでいる。
また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、親魏大月氏王の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的良く知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。
しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一の物と見なしていいかどうかには様々な立場がある。ソグディアナやホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。