セットバックとは
二項道路に接している敷地で、道路の境界線を後退させること。セットバックした部分は道路と見なされるので、その部分に建物を建築することはできない。また、建ぺい率・容積率の計算の基になる敷地面積に含めることも不可。セットバックが必要な面積が、敷地面積の10%以上ある場合は、物件広告を出すときに「要セットバック○平方メートル」といった形で表示する必要がある。すでに後退している場合は「セットバック済み」となる。
外国為替のノク文化の居住層からは、土偶や土器のほかにノク人が鉄の生産を行っていたことを示す溶鉱炉跡の遺構が検出された。炉は、深さ50〜60cmくらいほど、直径1mほどの穴を掘り下げ、粘土壁を筒状に人間の背の高さくらいに作って、地表面と粘土壁の付け根部分にふいごをつけたものである。主な鉄製品としては矢と槍先に着ける刃物や尖頭器があるが、腕輪も製作することがあったようである。ノクの鉄器の鋳造は、アフリカの他の地域と比較しても最古の部類に属すると考えられている。
また、1998年サザビー社のアフリカ、オセアニア、アメリカ先住民美術部長でマリの土偶研究の第一人者として知られるBernard De Grunneは、これまで、ナイジェリアのイフェ文化へ継承されるとされてきた、ノクのテラコッタについて、中南部アフリカのバンツー文化の彫刻に与えた影響についてまで論じる研究を行っている。
ノク文化の土器はミシン目状に盛り上がった斑点状の施文がなされるもの、肥厚し、外反する口縁端部に沈線が施されるタイプ、器面に盛り上がった斑文と断続的な沈線が施されるもの、おなじように丸い斑紋が口縁部の内側に施されるもの、沈線が一本か複数本器面に帯をつくるように一定の間隔で施され、その間に蜂の巣のように細かくつついたあなが施されている。胴部全体に網目状の文様と細かいあなが施されているタイプがある。胎土は土偶と同じ混和材や鉱物が含まれているという特徴がある。
FXの集落遺跡は、山頂のような場所で確認されることが多く、土器片や土偶の破片が散布している。そのような遺跡では遺物とともに地表面のあちらこちらに長さ数百m以上に及ぶ石材を用いた構築物がみられる。特に周壁の残骸のようなものがみられることがある。集落を防御するための囲壁と考えられ、石材には花崗岩が用いられている。特に印象的な好例としてKochina遺跡が挙げられる。集落の中央部分にも巨石の石板が壁状に建てられていることがある。このような遺構はノク文化において大規模な協同作業が行われていたことを示している。
古代エジプトのヘレニズム王朝(紀元前306年 - 紀元前30年)。アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の死後、部下であったプトレマイオス(マケドニア地方出身のギリシア人)が創始した。首都はアレクサンドリアに置かれ、アレクサンドリアは地中海世界屈指の大都市・ヘレニズム文化の中心として栄えた。
プトレマイオス朝はエジプトの伝統を取り入れて血族結婚を繰り返したので、200年以上エジプトを支配しながらエジプト人の血が混じらず、ギリシア人の血脈を保った。代々「プトレマイオス」という名前を持った王が、姉・妹・叔母・姪などにあたる「ベレニス」「アルシノエ」「クレオパトラ」という名前を持った女王と共同統治した。しかしプトレマイオス朝は一族内での殺し合いが頻繁に行なわれ、これに介入したローマにより滅ぼされた。
FXに由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合したもの、すなわち「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス大王(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。
アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称する場合がある。この文脈でヘレニズムの語を用いたのは、19世紀ドイツの歴史学者ヨハン・グスタフ・ドロイゼンである。ドロイゼンの功績は、マケドニアによるポリス征服までが古代ギリシア史の重要範囲とされていたため、ほとんど省みることがなかった征服以降の時期に脚光を当てたことである。これによって、多くの研究者の関心がこの時代に向かい、研究の前進がなされた。
しかし、この文脈での「ヘレニズム」という視点が、多くの問題を残したのも事実である。まず、この見解を示したドロイゼン本人が、19世紀を生きたドイツ民族主義者であり、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題などに積極的にかかわり、軍事力によるドイツ統一に理解を示した人物であった。こうした彼の心情は、広大な世界を武力統一したアレクサンドロスの軍事行動を美化させ、被征服側の主張に対して盲目になることを余儀なくさせたといえる。また、アレクサンドロスの征服と「ギリシア化」を一種の「文明化」のような文脈でとらえることは、当時の「暗黒大陸」アフリカを「啓蒙」しようとする心情にも通ずるもので、ヨーロッパ中心主義との批判もある。同時代にギリシア語(コイネー)が各地に広まったのは事実であるが、既にアケメネス朝の時代より商用語としてのアラム語が各地に普及しており、広大な世界における意思疎通は、アレクサンドロス以前より十分に可能であった。アケメネス朝の時代より各地域の文化は融合・発展しており、ことさらこの時期に流入したギリシア文化の役割だけを過大評価することは、それ以外の文化を軽視しているともいえる。
FXとしてのヘレニズム時代(Hellenistic period)は、アレクサンドロスの治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指す。
広大な帝国を築き上げたのちアレクサンドロスが死ぬと、その版図はアレクサンドロスの部下達によって争奪・分割された。これら、およびさらにそこから派生した諸国をヘレニズム諸国という。
これらの国は東地中海からオリエント地域を支配し、ギリシア風の「ヘレニズム文化」を維持・発展させたが、次第に共和政ローマが東へ進出することで滅ぼされ、ついに紀元前30年、最後のヘレニズム王朝であったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合された。このことによって、ヘレニズム時代は終わったとされる。
しかし、その後も文化的にはギリシアはローマを圧倒し続けた。ギリシア語は東地中海地域の共通語として使われ、ヘレニズム文化が栄えた。また、ローマ帝国分裂後も7世紀以降の東ローマ帝国では支配地域・住民がギリシャ語圏となったためにヘレニズムの伝統が重視され、キリスト教と融合した「ビザンティン文化」を生むことになった。
ヨーロッパ文明の基調をヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教)と、ヘレニズムに求める見解は、19世紀にマシュー・アーノルドによって示された。以降、こういった見解はヨーロッパ文明を説明する上で一般的に用いられている。
紀元前2世紀に匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民、月氏はバクトリアに定着した。これを通例、大月氏と呼ぶ。漢書西域伝によれば大月氏は休密翕侯、貴霜翕侯、雙靡翕侯、?頓翕侯、高附翕侯[1]の五翕侯[2]と呼ばれる部族が分かれて統治していたという。
このうち最も強大だったのは貴霜翕侯(クシャーナ)であった。大月氏の諸侯はそれぞれコインを発行していたが、貴霜翕侯が発行したコインは他の諸侯の発行したコインに比べ数も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか鋳造されなかった。
貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠はヘラウス(またはセナブ)と言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛糾している状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。1世紀初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯は族長クジュラ・カドフィセス(丘就卻)の下で他の四翕侯を全て征服して王を号したと後漢書西域伝には記されており、一般にこれをもってクシャーナ朝の成立と見なされる。クシャーナ族自体は大月氏の一派であるイラン系の集団であるとも、土着のイラン系有力者を母体にするともいわれる。
クジュラ・カドフィセスはカブール(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(又はヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。[3]さらに濮達とケイ賓(?賓 ガンダーラ?)を征服しパルティア領(インド・パルティア王国)の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王ゴンドファルネスであったが、クジュラ・カドフィセスは彼と争ったか、もしくは彼の死(西暦50年頃?)による同王国の弱体化に乗じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ・カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド・パルティア王が発行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ・カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後継者アブダガセス1世などがほぼ同時代を生きていたのは確実である。